こんにちは、じぶんじくのKouです。
今日は「普通と原体験の関係」について書いてみたいと思います。
この記事で分かることは?
仕事上のとある会話…
上司:なんでこんなことになったんだ?どうして報告しなかったんだ!?
部下:いや、報告は上げていたのですが…
上司:いつ?どこに上げていたんだ?
部下:週に一度、LINEで上げていました。
上司:LINE!?お前馬鹿なのか?社会人がLINEで報告するなんてあり得ない!
部下:いや、でも日常業務の連携もここでしてますし…
上司:報告はメールだろ!そんなこと【普通】に考えれば分かるだろ!
部下:はぁ…すいません…
その普通は普通なのか?
ここでは一体何が問題なのでしょうか?
恐らく、何か業務がうまくいかなかった状況だと思います。ここで上司と部下がぶつかっているようです。
組織としてメールがスタンダードなのか、SNSを使う事が許容されているのか、それはこの会話ではわかりません。なので、組織については一旦考えず、個人について考えてみましょう。
論点は「報告の有無」についてですが、報告は上がっていたようです。上司はメールで報告するのが当たり前だと思っています。しかし部下は、日常業務でもLINEを使っていることから、メールではなくLINEで報告を上げていました。当然それが普通だと思っていたと言う事です。
ここで言えることは、”自分の普通は他の人の普通ではない”ということです。
違う人間なので、”普通”の考え方は人と違って当たり前、ということです。
普通とは一体何か?
「人によって普通が異なる」ということは、感覚的にもわかることかと思います。
従って、普通という価値観が異なる人同士がいっしょに何かをするためには、前提をそろえることが必要になります。
いろんなビジネス書を読んだり、SNSで情報収集をしたりするのは、その前提をそろえるためのアクションの一つです。
ではその”普通”は一体どのように生まれるのでしょうか?
Artist Thinkingでは、普通の概念は原体験が関係してくるのではないかと考えています。原体験とは、「人の生き方や考え方に大きな影響を与える幼少期の体験」のことですが、ここで「大切にする人生のテーマ」が決定します。
この人生のテーマは自分自身の深いところで信じていることになりますので、あらゆる判断や感じることはここに紐づいてきます。
生まれたDNAはひとりひとり異なるのはもちろんですが、育ってきた環境=原体験が生まれる環境が違うので、この人生のテーマも違って当然です。
つまり、当たり前に使っている”普通”もバラバラになるわけです。
様々な価値観や考え方を受け入れる
ダイバーシティや多様性ということをよく耳にします。時代の流れからすると、本当に必要な考え方だなと感じます。
あくまで、この考え方も私の原体験に紐づくものなので主論でしかないのですが、人生のテーマや生き方が異なる人を許容して、誰もが安心できる世界にしていきたいと常々思います。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
過去から学び、未来を見据えて、現在を懸命に生きていきましょう!